宇多田ヒカルとマジョリティの女の子
- Kenij Endou
- 2016年10月31日
- 読了時間: 2分
更新日:2020年9月14日

というわけで、久々のブログ。秋の深まりを感じる、いい季節になりました。夜は涼しいのでカーディガンを羽織っています。さて、宇多田ヒカルが5年半ぶりにアルバム「Fantome」をリリースしました。朝ドラの例の曲も入ったアルバムで、これが各所で評判がいいのです。ということで今回の素材は「宇多田ヒカル」。
確かにサウンドワークを一つとっても、全然嫌みがない。和風フレンチの朝ごはん、さらっと作ってみましたな風情である(なんだそれ)。歌詞の主要なテーマは、男女の恋愛と女の子自身の人生賛歌で、今作も全くぶれていない。もうデビュー作から一貫したテーマ設定なので、頭が下がる。で、彼女の歌を聴いて私が思い浮かぶのが日本のマジョリティの女の子である。別に過剰なサブカル趣味でもなく、過剰な文学趣味でもなく、少し欧米のR&Bも聴くけれども、やっぱり私の心情をリアルに歌ってくれる宇多田が好き、みたいな女の子である。おそらくその辺がレコード会社の主要なターゲットであるとも思うので、無理もないのであるが。。。
であるのだが、宇多田ヒカルはもう少し見ている方向が違う。そして、リスナーの女の子達も違う、と思う。彼女らはレコード会社のマーケティングなどはっきり言って知ったこっちゃないのである。宇多田はストイックな曲づくりをしたいだけだし、リスナーは自分の人生を後悔することなく生きていたいだけなはずだ、と思いたいのは私のロマンティズムだろうか。宇多田のストイシズムは女の子たちの生き方とシンクロし、高度に消費化された社会を生きる我々の生とともに息づいている、はずである。
「日常に生きる少女」と、向井秀徳は歌った。私もまた、日常に生きる女性たちが好きである。
では皆さんよき日を。
Comments